› はすのやにっき7-seven- › 2008年10月27日
2008年10月27日
ガッカリ市長と心の拠るマツリ
2008年 宮崎神宮大祭 の「まるわかりガイド」なるものを、
友人が持ってきてくれました。
ひと通り眺めて、今さらに頭がクラクラするのを感じます。
ハッキリ申し上げて、「まるでわからんガイド」です。
少なくとも、僕にとっては。
祭りについての説明はその17ページに及ぶガイド中、
僅かに
5行
100文字程度
しかも何たる言葉足らずな文章。
ごあいさつのページにいたっては、祭主側の挨拶文が
市長や奉賛会の下。これってどうなん?
その市長がまたキレっぷりを見せています。
彼のよこした短い挨拶の冒頭がこんな感じ
「秋の商工観光まつり」が、今年も盛大に開催され
ますことを、心よりお喜び申し上げます。
あ、秋の・・・「商工観光まつり」ぃ!?
いや僕はね、人の信仰というものを大切にする気持ちは、
宗教の別なく心の中のデリケートな部分だと思います。
金銭や経済活動を「神」として信じておられるかは知りません。
が、その「ごあいさつ」のページの上部にこう書いてあります。
古 よ り の 伝 承 文 化 を
後 世 に 伝 え た い
もう何だか腰もくだけて、泣きそうになってきます・・・。
これがギャグだったら、ナンセンスをぶっちぎっちょる。
マンネリ化を指摘されてきた宮崎神宮大祭。
近年、県内各地から観に訪れる人も減ったといい、
沿道を埋め尽くしていた地元民も少なくなっています。
しかし偉大なるマンネリこそ、長いながい歴史に息づく伝統では
ないでしょうか。そもそも神事ってのはそんなものです。
時代によって感性こそ変わっても、郷土の祭りに対する愛着に
変わることは無い。改めてそう思いたいこの頃ではありますが、
もし関係各位が市長と同じような感覚を持たれておられるなら、
祭りが今後どのように工夫されようとも衰微していくのを止める
ことは出来ないでしょう。
僕は別に特定宗教に耽溺しているものではありません。
人智を超えたものは何となく、在る、ような気がしますが。
余談です。
ただ、「観音様」や「えべっさん」に「祇園さん」・・・。
祀られ、祈りを捧げられるものは、同時に大きな求心力を持ちます。
そして最も大きな祈りの時、それが「祭り」であり、カタルシスの解
放というエネルギーは、その「場」に人々を惹きつけてやみません。
それも、普段からの聖と俗の付き合いがあってこそ生まれるもの。
なぜ、ここにあり
なぜ、祀るのか
来歴不明・アイデンティティ喪失の「イベント」を行おうという限り、
心の寄る辺無き祭りは、更に遠い存在になっていくことでしょう。
と、なると課題は結構大きいんですよね。
宮崎の今後と自我の確立にも関わってきます。
出来ることから、やりましょう。
お金なんか、本当はかけなくたっていいんですから。
ミヤザキ シュライン グランド フェスティバル だってさ・・・
友人が持ってきてくれました。
ひと通り眺めて、今さらに頭がクラクラするのを感じます。
ハッキリ申し上げて、「まるでわからんガイド」です。
少なくとも、僕にとっては。
祭りについての説明はその17ページに及ぶガイド中、
僅かに
5行
100文字程度
しかも何たる言葉足らずな文章。
ごあいさつのページにいたっては、祭主側の挨拶文が
市長や奉賛会の下。これってどうなん?
その市長がまたキレっぷりを見せています。
彼のよこした短い挨拶の冒頭がこんな感じ
「秋の商工観光まつり」が、今年も盛大に開催され
ますことを、心よりお喜び申し上げます。
あ、秋の・・・「商工観光まつり」ぃ!?
いや僕はね、人の信仰というものを大切にする気持ちは、
宗教の別なく心の中のデリケートな部分だと思います。
金銭や経済活動を「神」として信じておられるかは知りません。
が、その「ごあいさつ」のページの上部にこう書いてあります。
古 よ り の 伝 承 文 化 を
後 世 に 伝 え た い
もう何だか腰もくだけて、泣きそうになってきます・・・。
これがギャグだったら、ナンセンスをぶっちぎっちょる。
マンネリ化を指摘されてきた宮崎神宮大祭。
近年、県内各地から観に訪れる人も減ったといい、
沿道を埋め尽くしていた地元民も少なくなっています。
しかし偉大なるマンネリこそ、長いながい歴史に息づく伝統では
ないでしょうか。そもそも神事ってのはそんなものです。
時代によって感性こそ変わっても、郷土の祭りに対する愛着に
変わることは無い。改めてそう思いたいこの頃ではありますが、
もし関係各位が市長と同じような感覚を持たれておられるなら、
祭りが今後どのように工夫されようとも衰微していくのを止める
ことは出来ないでしょう。
僕は別に特定宗教に耽溺しているものではありません。
人智を超えたものは何となく、在る、ような気がしますが。
余談です。
ただ、「観音様」や「えべっさん」に「祇園さん」・・・。
祀られ、祈りを捧げられるものは、同時に大きな求心力を持ちます。
そして最も大きな祈りの時、それが「祭り」であり、カタルシスの解
放というエネルギーは、その「場」に人々を惹きつけてやみません。
それも、普段からの聖と俗の付き合いがあってこそ生まれるもの。
なぜ、ここにあり
なぜ、祀るのか
来歴不明・アイデンティティ喪失の「イベント」を行おうという限り、
心の寄る辺無き祭りは、更に遠い存在になっていくことでしょう。
と、なると課題は結構大きいんですよね。
宮崎の今後と自我の確立にも関わってきます。
出来ることから、やりましょう。
お金なんか、本当はかけなくたっていいんですから。
ミヤザキ シュライン グランド フェスティバル だってさ・・・